STVラジオ番組 「北海道百年物語」
知床草楽園
羅臼国後展望塔
村 田 吾 一
放送日 平成14年10月27日(日)

 STVラジオ北海道百年物語。
 今日は、知床羅臼町の村田吾一をご紹介します。


 羅臼が「陸の孤島」と呼ばれた戦中・戦後時代、小学校校長だった彼は、率先して村の食糧難を助け、 人々の生活安定に尽力しました。 その後、村人の熱い要望を受けて、初代村長に就任してからは、住みよい町づくり、観光にも重点を置き、今日の羅臼の基礎を築きました。 それでは、「知床の親父」と呼ばれた村田吾一をお聞きください。

 日本国内の中でも最後の秘境と言われる知床半島。この東側に位置する羅臼町は、「日本の魚の旨味は羅臼の魚で極まる」と言われるほど、北海道でも有数の漁業の町です。
 ここは、知床国立公園を擁し、ヒグマやオオワシ、エゾシカなどたくさんの動物たちがその地に住み、大自然そのままの営みを続けています。秋になると、知床の川には、いっせいにサケが上り、卵を産み、そして孵化して、稚魚たちはオホーツクの海へ出て行くのです。
 人口およそ七千人、漁業の町、観光の町として全国に知れわたった羅臼町ですが、それは、公選初代村長「村田吾一」の功績なくしてはありえませんでした。彼が村長に就任した期間は、戦後間もない8年間のみでしたが、村田吾一は、村長の肩書きに拘らず、住民ひとり一人の心の支えとなり続け、羅臼の発展と国後の返還運動にその生涯を費やしました。

羅臼には、親父二人あり。熊と村田。一人は姓あり。これに断らずして、知床をさ迷うべからず。
 昭和30年代、羅臼での映画のロケをきっかけに交流が生まれた俳優森繁久弥氏は、村田吾一にこのような言葉を送っています。
 村田吾一は、知床の名物親父として、誰からも愛された人物でした。

  年の瀬も迫る昭和3年、一人の新米教師が国後島の桟橋に降り立ちました。島国、流氷、国後最高峰の茶々岳(ちゃちゃだけ)、すべてが初めて見る風景でした。
 「これが国後か。憧れの島かぁ。よし、村田吾一、今日からここで頑張るぞ。」
22歳の若さ溢れる小学校教師を迎え出たのは、古釜布(ふるかまっぷ)尋常高等小学校の生徒たちでした。
 「先生!ようこそ国後へ!」

みんな笑顔で歓迎し、彼の荷物をソリに積んで学校まで案内しました。この日から、彼の国後島での13年間の教師生活が始まったのです。

 栗山町に生まれた村田吾一は、6歳のとき鳥取県に移住、農家に生まれ、鳥取の農学校で学んだ彼の唯一の趣味は、植物採集でした。農作業中の合間など、いろんな植物を採っては独学で勉強し、植物への知識を深めて行きました。
 「この辺の植物は、もう集めてしまったみたいだ。そうだ、生まれ故郷の北海道に行ってみようか。あそこには、まだ見ぬ植物がたくさんあるだろう。」
 その熱中ぶりは、吾一の足を北海道まで運んでしまいました。
 大正13年春、現在の北海道教育大学岩見沢校に入校、北国の植物採集に意欲を燃やしながら、翌年には、雨竜町で小学校教師を勤め始めました。そのころ、こんな話が吾一の耳に届きました。
 「国後島には高山植物が群生しているらしいぞ。」そうとなっては、いてもたってもいられません。
 「島の先生になりたい。」
 昭和3年、国後で当時としては大変珍しく教員資格を持った、しかも、自ら希望して来た小学校教師が赴任しました。吾一は生徒たちと島中を回り、山、川、湖そして植物など、自然を大いに満喫しました。豪快で物事に拘らず、誠実な人柄の彼は、島の人々から信頼され、昭和7年には、27歳の若さで、植内(うえんない)尋常小学校、校長に大抜擢されたのでした。一方、植物採集は、相変わらずの力の入れようで、山に登っては植物を採り、自宅の庭に植え替えては、眺めて喜んでいる毎日でした。そんな楽園のような島生活にも、終わりを告げる日がやって来ました。
 国後からわずか25キロ離れた羅臼町に赴任命令が出されたのです。
 「羅臼は、君の気が合うところだ。きっと教育的理想郷が築ける所だから。」
 渋る吾一に教育長は、口をすっぱくして薦めました。すでに国後に対して強い愛着を抱いていた吾一は、「きっとまた戻ってくる。」と、泣きながら手を振る人々に言い残し、国後島を後にしました。

 昭和16年。しかし、これが吾一にとって、最後に見た国後の姿となったのです。その後、終戦を迎えた昭和20年に、国後島は、旧ソ連軍に占領され、日本人が自由に行き来することはできなくなってしまいます。

 昭和16年、羅臼岳の緑鮮やかな6月、吾一は、羅臼村に到着しました。事前に送っていた荷物は、新しい赴任先の羅臼尋常小学校の子供たちが、家まで運んでくれていました。家具はなく、代わりに国後から持って来た貴重な高山植物の植木、鉢、標本、石などが山のようにあったため、子供たちは、「今度の校長は、植木屋さんだ。」と、口々に言いました。戦時中、村人の最も深刻な悩みは、食料不足でした。特に、冬は、雪で道路が閉ざされ、陸の孤島となる羅臼では、食料確保は重要な問題でした。当時、村の責任者である村長は、道から任命されている人物で、住民との触れ合いは、あまりありません。明日の生活に不安を抱く住民たちの姿を吾一は黙って見過ごすことはできませんでした。「みんなで畑を作ろう!食料がないなら、自分たちで作ればいいじゃないか!」今や高山植物どころではありません。小学校の裏山や花畑までつぶして畑を作って、それを区画割して住民に割り当てました。この吾一の機転で、人々は子供から大人まで、一家総出で畑を耕し、イモやカボチャを実らせ、戦中・戦後の厳しい食糧難を免れることができたのです。

 ある日、授業中に生徒たちが吾一のところへやって来ました。
 「校長先生。帰ってもいいですか?」
 「帰るって、まだ、10時だぞ。始まったばかりだぞ。」
 「今、帰らないと、潮が満ちて帰れなくなるんです。」
 何のことやらと子供たちについて行くと、通学路の磯道が夕方になると満潮で渡れなくなることが分かりました。更にその先を進むと、大きな洞穴が見えてきました。
 「ほう、こんな所に洞窟がある。」
 中に入った吾一の目に飛び込んできたのは、暗闇の中に薄っすら輝くヒカリゴケの存在でした。
 「こんな所にヒカリゴケがある。植物図鑑で見たものに間違いない。」
 毎日通学途中に生えているただのコケに校長先生はどうして興奮しているのか、子供たちにはよく分かりませんでした。「すばらしい発見だ!もしかしたら、ここは羅臼の観光名所になるかもしれない。」吾一の働きかけが功をなして、昭和39年、道はこのヒカリゴケを天然記念物に指定し、この洞窟は観光バスで人々が押し寄せる観光名所となったのです。


 終戦を迎えると、戦中教育の後悔の念が、彼をそのまま教職に留まることを許しませんでした。「いくら国の方針だったとはいえ、子供たちに教育勅語を指導し、教え子を戦地に送ってしまった。私のやって来たことはいったい何だったのだろう?彼らには、謝っても謝り切れない。私は、もう教師の資格がない。」ちょうどその頃、地方自治法の制定により、各市町村長の選挙が行われると、吾一は、村人たちから公選初代村長立候補の推薦を受けました。初めて村民が、直接村長を選び、村の行く末を託すこととなったとき、人々はその適任者には、自分たちの生活を真っ先に考え、支えてくれた吾一以外にはありえないと思ったのです。食糧難で役場の職員が手を拱くだけの中、率先して村人を一致団結させ、自給自足を行った村田吾一は、彼らの命の恩人として、深く感謝されていたのでした。「こんな私を信頼してくれる人たちが、これほど大勢いるとは、私はなんて幸せ者なんだろう。もう悔やんでばかりはいられない。子供たちを戦地に送ったという後悔の気持ちをバネにして、これからは村を助けることを次の人生の生きがいにしよう。」

 昭和22年。見事村長に当選した吾一は、村人の気持ちに報いるため、戦後の生活の安定と産業振興の基盤作りに心血を注ぎました。まず、水産資源の開発事業として、道南から100家族の入植者を受け入れ、その生産を最大限に活かし、村の経済力を高めました。このころから人口は、鰻上りに増加し、従来の水力発電では、電力が不足したため、続いてこれまでの5倍の水力発電所を建設。また、昭和28年には、将来の財源のため、国有林二千ヘクタールの払い下げを受け、計画的な植林と伐採を始めました。更に、公営住宅も建設し、村民の生活の向上を図りました。精力的にこれらの活動を行い、村の生活基盤の基礎を築いた吾一は、昭和30年、任期満了に伴い、人々に惜しまれながらも村長を退任しました。吾一、49歳のときでした。
 しかし、これで、彼の活動が終わったわけではありません。戦後、ソ連領となった国後をはじめ、北方領土返還のため、国後に関する著書を刊行し、各地で講演活動を行いながら、返還運動に新しい情熱を傾けました。「いつかは国後が日本に返還される日が来る。私の愛した国後の地を、もう一度踏む日が、きっとやって来る。」そう信じ、希望を捨てませんでした。

 昭和30年代、信金の羅臼支店長として働いていた吾一は、作家戸川幸雄と知り合いました。知床を題材に小説を書こうとこの地を訪れたのでした。国後や流氷、動物、山脈など、戸川の取材に吾一はこと細かに応じました。昭和35年、この小説は、「地の果てに生きるもの」というタイトルで映画化されることとなります。村田吾一、そして知床に住む人々にとって、作家戸川幸雄は、もう一つの知床の素晴らしさを教えてくれた人となったのです。「秘境や原始の自然は、知床に厳然と太古からあった。だが、その知床のよさを世に知らせてくれた人、それは戸川先生だった。」後に吾一は、このように語りました。
 主演森繁久弥をはじめ多くのロケ隊が羅臼にやって来たことで、羅臼は空前のお祭り騒ぎ。もちろん、賑やかなことが大好きな吾一も、映画がスムーズに撮影しやすいように、積極的に参加しました。森繁たちは、吾一等羅臼の人々の人間性に惹かれ、ロケが終わり町を去る前夜、酒宴の席で森繁は思いのままを詩に綴り、ギターを手に即興で曲を作りました。
知床旅情
森繁久弥 作詞・作曲
知床の岬に ハマナスの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちのことを
飲んで騒いで 丘に登れば

遥か国後に 白夜はあける

 みな、涙、涙で大合唱し、別れを惜しみました。この映画の公開と森繁の知床旅情の大ヒットで、知床そして羅臼の名は、一躍全国に広がったのです。
吾一は、その後も公民館長、教育委員を務め、また町史の編纂に携わるなど、羅臼の文化、教育、社会福祉の普及に尽力し、昭和52年には、羅臼名誉町民となりました。
町を愛し、人々を愛し、草花を愛し、そして国後への望郷の念を募らせた村田吾一は、町の発展を誰よりも願いながら、平成5年88歳で亡くなりました。この吾一の功績を住民は町葬をもって報いました。
 彼の死後、自宅は家族によって提供され、「北方領土国後館 知床草楽園」として開館されました。国後返還運動の資料の展示、村田吾一の功績、また彼が生涯をかけて収集し、庭に植えられている国後や知床の貴重な高山植物62種を配置し、吾一の人生の足跡を後世に伝えています。 

生前、村田吾一は、羅臼や国後に対してこんな言葉を残しています。
 「余暇に植物を植えて楽しみ、山に登り写真をやって眺め、俳句を作っては良いの悪いのと知ったかぶり、麻雀を遅くまでつもっては妻に叱られ、碁を打っては先生に叱られ、嫁の世話をしては呑み、皆の前で話をさせられては悪口を言われ、そして生きながらえて世の態様を楽しんでいる一人の人生行路の旅人が羅臼にいることは確かである。私はこうして生きながらえながらも、あの楽しかった白い雲の流れている下の国後を毎日真正面から見て暮らせることがとても楽しいのである。
 私はここで、国後や千島の番人として、島を見守って暮らすことを決心した。機会があったら、知床に来てください。

 知床の原始秘境の中に、自然が演出するものは、海岸美、山岳美、植物の生態美、動物の自然生活美、朝日の光線美、空気の清らかさ、川と石の美、流氷美、そしてこの自然美に織り出すのは、人情美、自然の中に生きる生活美、生産美、千島を募る人たちの郷愁美である。これらが一つになって、知床の見どころと言えるだろう。」

 現在、羅臼には、年間およそ70万人の観光客が訪れています。
 
 
 別れの日は来た 知床の村にも
  君は出て行く 峠を越えて
  忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん  
   私を泣かすな
   白いカモメよ

   白いカモメよ








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